2008年6月

解説編
 
 
 

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毛越寺ってどこにあるの?
どう読むの? けごし? もうえつ? けこし…
で、そのお寺、どうして行く気になったの?
もしかして、こないだの岩手宮城内陸地震のちかく?

毛越寺の公式サイト



毛越寺は 奥州平泉にある古刹です。平泉は、岩手県南部の町です。
2008年現在世界遺産に登録を目指してがんばってる町なので、
ご存知の方も多いかと思います。


毛越寺は、「もうつうじ」と読むのだそうです。
っていっても、実は私、今まで、ずっと「もうつじ」だとばかり思っていました。
 

名前の由来には、定まった説はないようですが、白鹿伝説は別として、
歴史的には、毛の国(関東)、越の国(北陸)を意識してつけられたらしく、
「もう・おつ」あるいは、「もう・えつ」から「もうつう」になったらしいです。
               (岩手県立埋蔵文化財センター所報( No.101 )より)
ちなみに、毛越寺から南西にいくと、厳美渓があるのですが、その途中の地域に、「毛越」と言う地名のがあります。
ただしここは、「けごし」と読むのだそうです。
なまって、「もうつう」となったということと、付近にある地名が「けごし」であることは、結びつきにくいので、ちょっと、納得がいきません。

毛越寺は慈覚大師円仁が開山したとのことですから、タイムマシンで当時へ行き、自覚大師様に聞いてでもこない限り、わからないかもしれません。

奥州というのは、その昔今の東北地方が奥州(おうしゅう)と
呼ばれていたので、懐古的な意味合いで、奥州平泉と呼ばれます。

芭蕉さんの「奥の細道」の「」です。
奥州仙台なんてのもありです。

平泉付近は、歴史的には、その昔、鎌倉幕府ができるころ、義経をかくまったりした藤原三代のころの浄土のような慈愛と穏やかさにあふれた地方都市があったとして、知られていますが、わたしはもっと古い時代の「えみし」の時代が好きで、長いこと、平泉の少し北の水沢のあたりを、調べたりしています。
いわゆる、アテルイが、えみしの長として、岩手や宮城北部をまとめていた時代に興味があるのです。

 
 

なお、「えみし」も「えぞ」も、
蝦夷」と書くことが多いのでごっちゃになっていますが、
「えみし」は、今の東北地方北部、「えぞ」はアイヌのいる北海道、
と違う場所を指します。

えぞのアイヌは、やっと、先日先住民族としてのアイデンティティが認められたけれど、
えみしは、平安時代のころには、日本の中央勢力に征服され、以後同化して日本人に
なってしまっていますが、わたし自身は、「えみしの末裔」だと思い込んでいます。

えぞのアイヌは、がんばって民族としてのコミュニティをいままで保ってきたので、
わずかながらも、その歴史や風俗がいまでも伝えられていますが、
「えみし」については、中央勢力によってすべての歴史が抹殺されてしまいました。

残っている記述もすべて、征服者(大和朝廷や奈良、平安の為政者)側の記述なので、
粗野で野蛮な民族として、さげすんで記されているだけです。


 

12世紀の奥州に、平泉を中心とする一大政治文化圏を築いた藤原三代の血筋も、

実はえみしの末裔だったろうと、私は考えています。
えみしが構成していた社会は、自然崇拝の村社会。

生きる空間のそこかしこに、神様がいるという思想。

そういった万物によって生かされているという考え方。

「まことの心を知るは森の精だけ…」
 

具象な権力者は存在せず、世話役としての長(おさ)が唯一の政治形態であったといわれています。
それは、「もののけ姫」に出てくる、森と共生するアシタカの村のイメージが近いと思います。


私は宮城県の仙台生まれの仙台育ち
宮城あたりは、奈良時代のまえに、すでに中央勢力の支配下に入ってしまいました。
坂上田村麻呂が宮城の多賀城に基地を置いたころです。

だから、岩手のえみし文化には、強い憧れがあるのです。
そのえみし文化が、中央勢力との微妙な均衡を保って、
その存在を示したのが、平安〜鎌倉にかけての藤原三代の時代なのです。
追われる義経を最後までかくまおうとしたことも、古からの、えみしの反中央の心の現われでもあったと思うのです。

おそらく、水沢よりももっと北、盛岡近くの、遠野の伝承文化は、ふるく、えみしの時代からつづいていたものと考えられます。

前置きがだいぶ長くなりました。

わたしの、平泉や遠野への徘徊は、
上述のような、いにしえの祖先への思い入れがあってのことなのです。




 

というわけで、先週、平泉の毛越寺へ行ってきました。
地震の起こるほんの直前、でした)

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