先に行った団体さんは年配者ゆえ、もうお疲れ気味。ベンチにずらりと並んで休んでいるその前を追い越します。

さらに奥へ進むと

あやめ畑
 

次のエリアは、開山堂前のあやめ畑


30アールという広さは、
3000m2 だから、だいたい500m四方くらいです。

ほかの観光あやめ園に比べれば、規模が小さいですが、
この庭園の一角に、ひそやかだけど、しっかり自己主張してる感じです。
このあやめ園は、昔もここにあったというわけではなくて、
発掘が終わってから植えられたものだそうです。

もちろんここのあやめも、かなり早すぎました。

あやめ祭りは、6/20からとのことですが、畑を世話してる人によれば、
ことしは、咲きそろうのは月末になりそうとのこと。

なお、あやめとはいえ、実際に咲いているのはハナショウブでした。

(実は、2週間後に、アヤメを見るために再訪しました)
ちょっとその様子を御紹介


 
 
 
 
 
 

開山堂

開山堂は、(上の画像の背景としてちょこっと写っています)覗いてみると慈覚大師円仁の像がありました。

藤原三代の絵もあるとのことで上に登って、撮影トライ。
そのときは暗くて見えませんでしたが、
あとでレタッチしたら左のほうに写っていました。

(見えなかったのは、私が近眼の癖にめがねかけないから)

たぶん、宝物間にあるのが本物で、ここにあるのが複製かと思います。


 
 

開山堂とあやめ畑の間にはベンチがあって、
しばらく夫婦一組が座っていましたが、2人がいなくなったので、私も座ってしばし休憩
向かって右に開山堂、左にアヤメ園があります。
なお、画面奥右にも同じ位の広さのアヤメ畑があります。
 
 

この毛越寺は、
藤原三代が滅んだときの
後三年の役(1083〜1087年)の戦火でいくつかの建物が焼け
江戸時代以前にも室町幕府の指示で復元されたりしたようですが、
その後の戦火でほとんどすべて、焼失

近代になって発掘復元されてはいますが、
半分くらいは、まだ、「○○跡」状態です。
 

嘉祥寺の様子は、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」などで知ることが出来ると説明があったので調べてみました。



 
 
 

…次嘉勝寺。未 終功之以前。基衡入滅。仍秀衡造之畢。四壁并三面扉。彩画法華経廿八品大意。本仏者。薬師丈六也。…

次に嘉勝寺。(いまだ功を終えざるの以前、基衡入滅す。よって秀衡これを造り畢んぬ。)
四壁ならびに三面の扉に、 法華経廿八品の大意を彩し画く。本仏は。薬師の丈六なり。

「吾妻鏡」の文治五年九月十七日の条より
なお、文治五年は、西暦1189年。
義経が、このすぐ近くの高館で自刃した年です。
基衡は二代目、秀衡が三代目です。

吾妻鏡は、文学書のように言われることがありますが、日本書紀などと並ぶ、中世史研究の基本歴史史料です。

順路に従って、先へ進みます。
今見てきた開山堂との遠景ツーショット。


 

下は、金堂跡。

基衡がかなり力を入れて建てた勅願寺だそうです。
 

吾妻鏡によれば、中尊寺の金堂よりも立派だったといわれています。



 
 
 
 

堂塔四十余宇。禅房五百余宇なり。 

基衡之を建立す。先づ金堂を円隆寺と号す。
金銀を鏤め、紫檀赤木等を継ぎ、萬宝を尽し。衆色を交ふ。
本仏は、 薬師丈六。同じく十二神将。
 

雲慶これを作る。仏井の像に。玉を以て眼を入るる事。此時始めて例となす

開山堂がさらに遠くなっていきます。

この一面の芝生は、金堂跡とあやめ園や池との間にあります。
 
 

上に書いたような歴史書や、中央政府との確執などを調べてからの訪問だったので、
この毛越寺遺跡や庭園を眺めていると、

この空間に確かにあったはずの栄華、祈り、そして戦いなどが、
私の身体のすぐそばに押し寄せてくるような気さえしてきます

少し花曇ぎみになっていたのが、青空と日差しが戻ってきました。
そのせいか、観光客の数も増えだしたようです。

ワタシを追っかけてくる人たちが増えだしました。
(単に、次の団体さんが到着しただけですが)


上の写真、やや中央から左下に細い流れが見えているのですが、池に水を送る遣水。


曲水(ごくすい)の宴」イベントが、この流れに沿って行われるとのこと。
当時の衣装をまとった男女が宴を繰り広げる様子、いつかこの目で見てみたいものです。
 
 


上下2枚の画像奥に見えているのは、常行堂。


そうして高揚してきたワタクシは、
太いかいなをあらわにすることもいとわず、ジャケットを脱いで…
(おほほ、汗びっしょりの二の腕を乾かしたのでございます。

このときの私の視線の先は、だんだん近づいてくる観光客の一段です。
出来るだけ目だって、惹きつけたい…
 

案の定、ノースリ撮影してたところ目指して、沢山の殿方が…

せっかくこの空間の雰囲気にしっぽりと包まれていたのに、「俗世間」まで戻ってきてしまいます。

ついでに度アップで♪

 
 
 

まあ、わたしにしてみれば、
「焼失した建物」の代わりに、私の脚でも見てってね、
なんていうわけで、気持ちもルンルン明るくなってきます。
 

鐘楼跡

 
 

常行堂


 
 

この常行堂は、修行のための建物だそうで、
1732年に仙台藩主 伊達吉村公が再建した?らしいです。
考えてみれば、その後江戸時代は、伊達藩が関わっていたんですね。

大きな地蔵菩薩さま
(向かって右です。左は、かんのんさま)

 

ここでは、ほかのお客さんの邪魔にならないので、女性としての「一挙手一投足」練習風景(笑)
 

今日の最後は、常行堂と鐘楼と美女(笑)。


 

この画像の左が鐘楼。鐘楼は、あとから作ったものらしく、本当の鐘楼跡とは別の場所にあります。
ときどき、不意にご?んとなるので、いたづらかな?と思ったのですが、
そばに管理の人がいてなんと、500円で鐘をつかせてくれるらしいのでした。

誤解のないように書き添えれば、願い事のある人は、護摩木をお供えし、鐘をつくのです。
護摩木が500円なのです。

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